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なめがたヒストリー

【霞ヶ浦大橋】もうすぐ開通から30年<その歴史と変遷>

~行方市の明日を支える架け橋は~

大寒波襲来ということで寒いのは苦手です…

からすです><

 

今回のなめがたヒストリーは、霞ヶ浦大橋について書いていこうと思います。

 

今では行方市(旧玉造町)とかすみがうら市(旧出島村)を繋ぐ唯一の橋であるこの霞ヶ浦大橋は、いったいどのような変遷で現在に至るのか。

 

ちょっと書いてみたいと思います。

霞ヶ浦大橋前史

まず、霞ヶ浦大橋の歴史については、3つのキーワードを押さえなければなりません。

 

それが渡船・高浜入干拓事業・霞ヶ浦架橋計画です。

 

まずはその一つ一つを追っていきましょう。

渡船

あり日の通運丸の姿

現在の霞ヶ浦大橋のある場所のあたりは、かつてより人の往来が盛んで、古くは『常陸国風土記』や『将門記』にも航行の記録がある由緒ある場所でした。

 

中世に入ると湖岸に港が置かれるようになり、高須や柏崎の地名も多く登場してきます。この頃から漁民も多く住んでいたようです。

 

江戸時代に入ると物資や年貢を江戸へと運ぶ河岸が誕生しました。

これによって大型輸送船が港に着くことが可能になりました。また、この時代の玉造・出島両地区は同じ水戸藩に属し、同じ南部管轄化であったことから人の往来があったということがしのばれます。

 

明治時代になると渡船場が設置されていきます。さて、ここでようやく渡船の話ですが、渡船とは対岸交通の必要なところに設置される渡し船になります。この渡し船が明治時代になると村々によって整備されていきます。

 

大正時代になると渡船は個人委託事業となり、蒸気船「通運丸」と「銚子丸」が就航します。

 

そして昭和3年には玉造~土浦間の水上交通は県道に認定され、水上の県道として活躍をしていきます。この頃は最も霞ヶ浦の水上交通が盛んであった時期ですね!この隆盛は戦時中から戦後まで続きます。

 

さて、この隆盛を誇った水運事業もとあることでかげりを見せます。

 

これが高浜入干拓事業です。

高浜入干拓事業

高浜入干拓事業の予定地だった場所

実は現在の霞ヶ浦大橋のある場所のあたりは干拓される予定でした。

 

昭和35年には農林省が計画を発表し、昭和42年には高浜入干拓建設事務所が旧玉造町に設置され工事の着工が決定されました。

 

この頃の日本は米を増作させる方針であり、八郎潟などの干拓工事を行っていた時期でした。この干拓はちょうどその流れに高浜入も入ったということなのでしょうね。

 

しかし工事の着工は決定したものの時代の流れが変わり、米の増産は減反へと転じており、昭和48年にはオイルショックもあり、この高浜入干拓事業は昭和53年に中止になりました。

 

この干拓事業と平行して多くの論議をよんだ事が、霞ヶ浦架橋計画です。

 

埋め立てて繋げるのか。橋を架けて繋げるのか。この論議が激しかった時代がしのばれます。

霞ヶ浦架橋計画

霞ヶ浦大橋の全景

上記の渡船と干拓事業と平行して第二次世界大戦後にずっと論じられてきたことが、霞ヶ浦架橋計画です。つまり橋を架けましょうという話です。

 

橋を架けようという声が上がったのは昭和27年に結成された玉造町の有志達による霞ヶ浦架橋期成同盟が発端です。

 

翌年昭和28年に対岸の柏崎と同盟を組み、柏崎・玉造架橋促進期成同盟を設立します。そして架橋することを茨城県に陳情します。

 

この後、に上記の干拓事業の話なども飛び込み架橋の話は様々な方向に流れましたが、昭和53年の干拓事業の中止をうけ、昭和54年に出島・玉造間架橋促進協議会が設立され、昭和56年に現在の田伏ー高須間で霞ヶ浦架橋ルートが決定されます。

 

そして昭和62年に玉造町、出島村の両住民が熱望していた霞ヶ浦大橋はいよいよ開通となったのです。

霞ヶ浦大橋の開通前と開通後の変化

就航当時の出島丸の姿

出島丸を利用して下校する高校生(昭和50年代後半)

木造であった浜桟橋(昭和40年)

霞ヶ浦大橋が架かる前は浜桟橋(旧玉造町
と柏崎桟橋(旧出島村)の両桟橋の間を出島丸という渡船が就航していました。

 

出島丸の就航は昭和40年代に入ってからです。最初は木造船でしたが次第に鋼船に変わっていきました。

 

桟橋も風情のある木造の桟橋が、護岸が整備され安全性の高いコンクリートの桟橋へと変化していきました。

 

こうして人々の生活を支えた渡船でしたが、霞ヶ浦大橋の完成をみて昭和62年3月3日に勇退しました。

 

勇退の少し前の地図を見るとまだ渡船をしていたことが伺えます。

昭和54年の地図を見ると、浜ー柏崎間に船が就航していることが分かる。

平成11年の地図からは渡船場は消え、霞ヶ浦大橋が見える。

昭和62年に開通した霞ヶ浦大橋は、当時の玉造町と出島村人々の生活に大きな影響を与えました。

開通前に人々の生活を支えていた渡船や渡船場は姿を消し、新たな時代の幕開けとなったのです。

 

霞ヶ浦大橋に思いをはせる

霞ヶ浦水上から見た霞ヶ浦大橋

現在霞ヶ浦大橋のおかげで簡単に渡れるようになったこの海峡ですが、橋が架かるまでには先人の様々なドラマがあり現在に至っているのですね。

 

かつて橋がなかった頃の苦労は橋が架かってしまうと忘れてしまうものですが、先人たちのこの熱い意思を受け継ぎこれからも橋を守っていきたいと思います。

 

霞ヶ浦大橋は旧玉造町と出島村が、行方市とかすみがうら市に受け継がせた両地域住民の未来へと架かる橋なのですから。


参考文献

・山口武秀『霞ヶ浦住民の闘い―高浜入干拓阻止の証言―』(筑波書林、1988年)
・玉造町史編さん委員会『玉造町史資料 別冊 かけはし』(玉造教育委員会 1987年)

参考URL

・時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」

協力 

今回の古写真は行方市教育委員会に提供のご協力をいただきました。

※取材時点の情報です。掲載している情報が変更になっている場合がありますので、詳しくは電話等で事前にご確認ください。

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