なめがたヒストリー
霞ヶ浦周辺に残る お盆の貴重な行事
こんにちは! あっついですね! からすです!
今年のお盆は皆さんはどうお過ごしですか?
家族旅行に出かける人や、海に遊びに行く人、お盆で親戚まわりをする人…
でも行方市のお盆といえば、やっぱり盆綱ですよね!
(これでなじみがある人が何人いるのであろうか)
というわけで今回のなめがたヒストリーは、北浦の三和の金上の盆綱を特集しようと思います!
筆者自身も盆綱に行きたくなってから早5年…
ようやく行けたのでガンガン書いちゃいますよ~★
まず初めに盆綱とは一体なんなのか。
茨城県教育委員会のHPの説明にはこうあります。
茨城・千葉両県にわたって広く分布する盆行事の一つで、子供たちが藁綱を曳いて先祖の霊を送り迎えする習俗である。
盆中の先祖祭祀の一端を示すだけでなく、先祖の霊の依代として龍や蛇に模した藁綱を用いるなど、水神信仰的な性格もみられる。また、分布域周縁の綱引き習俗や遠く九州地方に分布する類似例との関連も注目され、我が国の盆綱や綱引き習俗を考える上で貴重である。
8月13日の迎え盆では、子供たちが藁綱を曳いて墓地に赴き、先祖の霊を藁綱にり付かせたのち、集落の家々を廻ってこれを降ろす。この際には、綱を持って3回まわる、3回差し上げる、3回地面に叩きつけるなど、場所によって独特の所作を伴う。
8月15日の送り盆では、逆に家々を廻って先祖の霊を依り付かせたのち墓地まで行って降ろすが、その所作は迎え盆の時とほぼ同様である。使い終えた藁綱は、川や池に流す、沈めるといった例が少なくないが、焼却する、大木に巻き付ける、土俵の俵にして相撲を取るという例もあって一様ではない。
引用 茨城県教育委員会HP
茨城県・千葉県に多い盆綱ですが、2015年に「東関東の盆綱」という名称で国指定の「記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財」になったことから、茨城県教育委員会が本年度から3年かけて記録保存の実態調査を実施することになりました。
茨城県内の盆綱を継続している集落はどこも少子化に苦しんでおり、存続が難しくなってきているということです。
早急な調査と記録保存が大切です。
この盆綱は、この行方市周辺に多く残る文化でもあります。
まず、盆綱は行方市の史書である『麻生町史』と『玉造町史』の中にこうあります。
盆綱は、盆の始まりの日に藁で蛇または龍の形を作り、子どもたちが引きまわす行事で、利根川流域周辺を中心にして分布する特徴ある行事である。
麻生町内でもかつては行方の内宿で行われていた。
ここでは、旧暦7月13日の昼頃から坪内の老人数人が集まって、子どもたちが持ち寄った藁を捩って太さ1尺5寸(約45cm)ほど、長さ10尺~2間(約3m~3.6m)くらいの龍(大蛇)の形を作る。
これに子どもの人数に応じて引き綱をつける。
夕方、子どもたちは腰に6尺(約1.8m)のさらしを巻いて綱を引き、坂の下の薬師堂の墓地まで「やんさぼんさ、きれたらつなげ」と唄いながら行く。
墓地で仏様を乗せ、仏のある家の門口まで引いて回る。
各戸から銭などをもらうが、新盆の家からはたくさんのお礼があり、行事が終わった後は参加した子どもたちで分けて、駄菓子などを買って楽しんだという。
盆綱は最後に薬師堂近くで燃やしてしまった。
このように内宿で行われていた盆綱は盆の始まりに、子どもたちの手によって先祖の霊(仏様)を綱に載せ、各戸に降ろして回るというものであった。
引用 『麻生町史』
沖洲の盆綱(『玉造町史』より)
舟津の盆綱(『玉造町史』より)
7月13日は仏様迎えをする。
手賀舟津と高須、沖洲では、仏様迎えに「盆綱」と言って竜を型どり藁で銅を2間(約3.6m)にくらいの長さに太く作り「仏様ござらっしゃった」といってまわる風習がある。
現在は沖洲地区だけに引き継がれている。
引用 『玉造町史』
麻生地区と玉造地区の盆綱はほとんどの地域で絶え、今は沖洲だけになってしまいました。
そこで今回は、最も盆綱が残る北浦地区の三和の金上の盆綱に密着してきました。
金上とは、北浦地区の三和の中にある帆津倉集落、穴瀬集落、金上集落とある中の1つです。
かつては北浦の交易場として発展した場所で、金物(荷物)を上げた(揚げた)場所であることから金上というそうです。
なめがたヒストリーでもかつて特集した太刀揉みがある地区で、集落の中心には高貴神社という大六天を祀る神社があります。
金上集落のある三和では穴瀬集落でも盆綱があるそうですが、今回は金上集落の盆綱に関して書かせていただきます。
金上の盆綱は、毎年8月13日の16時から行われます。
準備は8月12日に地元の有志と新盆の家長、子供会の役員を中心として金上集落内の子どもたちが集められます。
かつては男の子だけの祭りだったそうですが、平成12年頃から女子も参加して盆綱の継続を図ったそうです。
参加する子どもたちは小学1~6年生。
令和元年の盆綱は男子1名、女子5名の計6名による盆綱となりました。
まず初めに子どもたちが午前中に集まり、金上集落の各家庭から藁を集める事から始まります。
基本的に集落内で採れた藁を使用して盆綱を作るという事で、いい盆綱が作れるように子どもたちも元気に藁を集めていました。
金上集落から集められた藁。
ものすごい量です。
お昼ご飯休憩後の13時から、高貴神社で盆綱の制作に入ります。
まずは千歯扱きで藁に毛羽だっているものはないかチェックし、良い藁を選別します。
選別が終わると、ハンマーやプレス機を使って藁を柔らかくしていきます。
藁を千歯扱きにかけます。
とても鋭い針です。
水をかけながら丁寧に叩きます。
プレス機にもかけてさらに柔らかくします。
柔らかくされた藁は、金上地区の大人たちによって盆綱へと仕上げられていきます。
盆綱は一年に一度しか作らないので、去年どうやって藁を編んだかを思い出しながら丁寧に編み込んでいきます。
綱は毎年子どもの数によって太さや大きさを変えるそうで、今年の綱は直径約2cm、長さは2m70cmくらいのものを制作していました。
左巻になるように編んでいきます。
金上の盆綱は龍を模していると言われます。
最後に補強して、持ち手を付けて完成です。
完成した盆綱を子どもたちがお墓へと運びます
お墓につくと、お地蔵様を起点にして3周回り、盆綱をお墓に置きます。
盆綱を一晩お墓に置くことによって、13日に家に帰る仏さま達が盆綱にしがみつくそうです。
これで翌日の本番の準備が整いました。
お墓に置かれた盆綱。
この上に仏様達がしがみつくとされます。
子どもたちが、お墓に16時に集合して本番スタートです!
服装はハチマキに白い靴下と決まっており、全員おそろいの体操着で盆綱に臨みます。
まずは出発前にお地蔵様を起点に3回周り、一度盆綱を激しく搗いてから約35軒を回り始めます。
盆綱を持った子どもたちは各家々を周り、盆綱にしがみついている仏様達を送り届けていきます。
掛け声は、子どもたちは家に着くと大きな声で「盆綱に来ましたーっ!!!」と言って入っていきます。
かつては「仏様連れてきましたーっ!!!」と言っていたそうですが、現在は少し変わったそうです。
その後、盆綱を家の前で激しく叩きつけます。
掛け声は「やんさ※のぼーんつな、切れたらつなげ! じいさんばあさん乗せてきた!」です。
(※「やんさ」とは、「よいしょ」の意)
周りの方の話によると、最近は盆綱の掛け声が高速化しているとの事で、かつてはもう少しゆっくりであったそうです。
少しずつ内容が変遷しているのも面白いですね♪
盆綱を激しく地面にたたきつけます。
盆綱を持って各家庭を回ります。
各家庭で盆綱のお小遣いをもらいます。
小学生以下の子ども達にも盆綱を持たせてあげ、盆綱継承者を育てています。
たまに休憩もしながら…
砂埃を巻き上げて激しく叩きつけます。
すべての家庭を周り終えると、盆綱を持って高貴神社へ向かいます。
各家庭をすべて周り終えると、高貴神社の奥にある膳椀小屋の横に盆綱を打ち捨てます。
仏様を各家庭に送り届けて、盆綱は終了となります。
今回は行方市の盆綱文化を紹介させていただきました。
金上地区総代は「今年も無事に仏様を家に送り届ける事ができて良かった。今後も子どもたちに続く限り継承してもらえればと思う」とおっしゃっていました。
集落全体で死者を弔うという文化が、だんだんと薄くなってきた現代社会。
そんな現代社会の中でも、子どもたちにとってこの集落で生まれ育ったこと、そしてこの集落には脈々と続いてきた祖先がいたこと、これが実感して分かるという盆綱は本当に素晴らしい行事だなと思いました。
これからもずっとずっと盆綱が続いていきますように。
これからもずっとずっと金上集落が続いていきますように。
優しい金上の子どもたちの笑顔がずっとずっと続いていきますように。
金上の子ども達のこの笑顔ずっと繋がってほしいですね!
・麻生町史編さん委員会『麻生町史 民俗編』(麻生町教育委員会 2001)
・玉造町史編さん委員会『玉造町史』(玉造町教育委員会 1985)
金上地区の皆様
※取材時点の情報です。掲載している情報が変更になっている場合がありますので、詳しくは電話等で事前にご確認ください。