なめがたヒストリー
~行方市に生きた偉大な郷土史家~
こんにちは。なめがたヒストリーの筆者からすこと宮嵜和洋です。
今回はからすではなく、宮嵜和洋として少し書かせていただければと思います。
行方麻生郷土文化研究会の立ち上げより約半世紀にわたって、麻生の文化保存や歴史を後世に残すために活躍され、このなめがたヒストリーというコーナーを作る際に大変お世話になりました、島並の植田敏雄先生が逝去されました。
今回のなめがたヒストリーは特別版として、植田敏雄先生のご功績をご紹介させていただければと思います。
また、勝手ながら私の植田先生との思い出を書かせていただければと思います。
行方市の3つの郷土文化研究会が発行する雑誌
現在行方市の中には3つの郷土文化研究会とそれぞれの出版する雑誌があります。
・玉造郷土文化研究会『玉造史叢』(~56号)
・行方市麻生郷土文化研究会『麻生の文化』(~46号)
・北浦郷土文化研究会『郷土北浦』(~36号)
「郷土の歴史を郷土の人々や子供たちに伝えなくてはならない」
現在ある3つの郷土文化研究会の意思は同じです。
筆者宮嵜は玉造郷土文化研究会と麻生郷土文化研究会に、会員として参加させていただいています。
中でも筆者宮嵜は麻生出身でありますので、『麻生の文化』には何度か寄稿させていただいております。
この『麻生の文化』を発行している行方市麻生郷土文化研究会を、約半世紀前の立ち上げの時のメンバー最後の1人であり、創刊号から毎号欠かさず最新号である46号の絶筆に至るまで、生涯現役で歴史研究を行った方が植田敏雄先生でした。
植田先生は『麻生の文化』の中で、毎号必ず麻生藩についての事にふれる論文を投稿していました。
植田先生の絶筆となった『麻生の文化』(46号)の「麻生藩の年中行事について」
外様小藩である麻生藩に関しては、歴史的な研究がされておらずほぼ白紙の状態でした。
これも旧麻生町は、明治時代に大火事があり郡役所や藩士の屋敷、旧家などもほとんど焼失し、たびたび襲われた大水害で紙史料はほぼ残っていなかったというのがあったからです。
植田先生はそんな中、地道な聞き込み調査、歴史文献の解読で麻生藩の歴史を明らかにしてきました。
植田先生は4年前の平成23年に、それまで『麻生の文化』に投稿し続けた論文を一冊の本にまとめます。
それが『常陸国麻生藩の研究』です。
この本の中で植田先生は次のように言っています。
「少年老い易く学成り難し」のことわざどおり、歳月だけが経過した。
折から、郷土文化研究会の仲間より、「会員も世代替りして創刊号からの執筆者はただ一人になってしまった。
早い時期の会報の残部もない。後進のためにもこれまでの書いたものをまとめてほしい」と要望された。
また、かつての学友からも「過去に発表したものは、いつでも取り出せるようにしておく必要がある。
それには一冊にまとめておくのが最良」とたびたび助言をいただいた。
特に恩師の瀬谷義彦先生より、「外様小藩について書いたものは少ない。
麻生藩について調べたことをまとめておくように」とのご指導をいただいた。
(植田敏雄『常陸国麻生藩の研究』 まえがきより)
『常陸国麻生藩の研究』は郷土史研究として白眉
このような外様小藩である麻生藩の郷土史を一冊にまとめられたことは、郷土史家として本当に素晴らしいことだと思います。
しかし、この本の中で植田先生は郷土の歴史研究に対する葛藤も次のように述べています。
麻生藩について白紙の状態から調査をはじめておよそ半世紀になる。
その間、勤務の合間に旧麻生藩士の子孫や、藩領の村役人を勤めた旧家を廻って史料の調査を続けた。
各地を歩くなかで「数年早ければ古文書があった」とか、「昔のことをよく覚えていた古老がいた」といかたびたび聞かされた。時には古文書の読解力を試され、その後、少しずつみせていただき、長期間通って老人の話し相手をしたことなど、懐かしい思い出である。
足で探して新しい史料を発見したら、可能な限り郷土文化研究会の会報『麻生の文化』に紹介し、会員の麻生藩についての関心を高めるように心がけてきた。
(中略)
今後、後進により、麻生の地を離れた旧藩士の子孫が所蔵する新史料の提供や、新しい地方文書の発見があれば、当藩の研究に新たな地平が開かれよう。
(植田敏雄『常陸国麻生藩の研究』 あとがきより)
筆者である私も、郷土史研究をする上での葛藤は同じものものを抱えています。
特に「数年早ければ…」だとか「あそこのおじいさんは昔のことをよく覚えていたのに…」というのは本当によくあります。
すべての歴史家にとっての永遠の悩みかもしれません。
しかし、植田先生のようにそれでもめげずに郷土史を残し続け、後進の私たちの歴史研究の発展のための足がかりにしてくださった事は本当に頭が下がります。
この行方市という場所に生きているというアイデンティティは、この場所に昔から住んでいた人々の歴史を認識することによって生まれます。
歴史や文化は守ることはものすごく大変で労力が必要ですが、消える時は一瞬です。本当に一瞬でなくなってしまいます。
守るには、現在判明している事を余すことなく書き残すことが重要になってきます。
植田先生は本当にたくさんのものを残して下さいました。
実はこのなめがた日和のなめがたヒストリーというコンテンツの立ち上げの時に、私は一番最初に植田先生に相談に行きました。
当時の私はこう尋ねました。「若い世代は今郷土史について学ぶ機会が少ないのでネットで配信してみたいのですがどう思いますか?」と。
植田先生は、「とってもいいことだと思うよ。郷土史を後進に伝えるために頑張ってください。」とおっしゃって下さいました。
そして、記事で困ったことがある時は植田先生に相談し、史料をお教えいただきました。
私はそれから一生懸命なめがたヒストリーというコーナーを書いてきました。
なめがたヒストリーが、現在なめがた日和の中でもたくさんの方に読んでいただけるコーナーになったのは、植田先生のおかげなのです。
忘れもしない、平成27年11月13日の茨城県民の日に私の家に一本の電話が入りました。
「植田先生が亡くなりました」と。
あの時の衝撃はいまだに忘れられません。
「麻生の偉大な郷土史家が亡くなってしまった。いったい今後どうして行けばよいのだろうか」と。
その時私は植田先生が言っていた言葉を思い出しました。
「後進がなかなか見つからなくて困っていたけど、君が新しい郷土史の伝え方を見つけてくれた。頑張って下さいね」と。
私はこれからも、この行方の地にいた先人たちの歴史を伝えなければならないと本当にあの時思いました。
これからも郷土史を後世に残していくために、頑張って生きたいと思います。
植田先生ほどは立派になれないとは思いますが、私は意思を引き継ぎたいと思っています。
今後これからの行方市のために歴史を残していかなければならないのです。
植田先生…今まで本当にありがとうございました。これからも頑張ります。
昭和4年生まれ。
茨城大学教育学部卒業。
茨城県内公立中学校、茨城県立高等学校教諭、茨城県立歴史館史料室長を経て、茨城県立波崎高等学校校長で定年退職。
平成27年11月13日逝去 享年87歳。
主な著書
植田敏雄『常陸国麻生藩の研究』(茨城新聞社 2011)
主な論文
植田敏雄「麻生藩の財政」(茨城近世史研究会『茨城史林』創刊号)
植田敏雄「水戸藩潮来領大州新田の村方騒動」(茨城近世史研究会『茨城史林』4号)
植田敏雄「水戸藩領潮来地方の新田開発」(茨城県立歴史館『茨城県立歴史館報』10号)
植田敏雄「大生神社の墨書について」(潮来町郷土史研究会『ふるさと潮来』第4号)
植田敏雄「幕末の海防と小藩の郷足軽ー麻生藩を例として」(地方史研究協議会『地方史研究』142号)
共著
『茨城百姓一揆』(風濤社)
『茨城県風土記』(旺文社)
『関東藩主大事典』(雄山閣)
『茨城県の地名』(平凡社)
『利根川・荒川事典』(利根文化研究会)
『図説 鹿行の歴史』(郷土出版社)
『茨城の歴史 県南・鹿行編』(茨城新聞社)
その他行方郡内の自治体史などの執筆または監修
植田敏雄『常陸国麻生藩の研究』(茨城新聞社 2011)
※取材時点の情報です。掲載している情報が変更になっている場合がありますので、詳しくは電話等で事前にご確認ください。
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